ふわふわと落ち着かない、けれども心地よい気分のなか、優しく柔らかい唇が触れて、それから。
やめて、と本気の声で言われて、眩しすぎるほどに目が覚めて、同じくらい一気に酔いも覚めた。

「……あ」

ぐし、と乱雑に、手の甲で自分の口元を拭う零。その視線は恨みがましく燃えていて、俺のことをただただ真っ直ぐ捉えていた。

「なにすんのさ」

 滅多に見ることのない、敵意を剥き出しにした零に、何も言えなくなる。

「あ、酔ってて……、つい」

そうだよ、俺めちゃくちゃ飲んだから、つい、悪ふざけで。ノリで、つい。

「……ま、間違えた、ね、ごめん」

本当なら誠心誠意謝るべきところだろうに、まだ酔いが覚めて間もない俺は、まるで取り繕うみたいに謝罪の言葉を溢す。
零は、そんな俺を、冷めきった目で見つめていた。

「……最悪よ、あんた」

「ご、ごめ」
「最低」

 謝る隙も与えずに、零はそう言い捨てて、バタン、と大きな音をたててこの部屋を去ってしまった。


零の家。時間は、深夜。

昔からの友人らで飲み会をした。お疲れ様会とか、これからもよろしく会だとか、名目は極めて適当で。親睦を深めよう、ともっともらしい理由をつけたのは誰だったか、とにかく気心知れた連中の、いつも通りの飲みだった。
俺は、こうやってみんなで騒いだ後の、一人になったときの余韻とか、あとから襲い掛かる寂しさとかが酷く苦手で。零もそれをわかっているから、都合のいいときはこうして、解散したあとに少しだけ宅飲みして、泊まっていくのがなんとなくの決まりだったのだけれど。

 覚束ない記憶の糸を手繰り寄せる。なんだか、ひどく酔っていた気がする。

「酔うと多分駄目なんだよなぁ」

 酒は怖い。超えてはいけないラインを、簡単に飛び越えてしまう。
 酔っ払い同士の会合で、ふざけて抱き付くとか、ふざけてキスするとか、そんなのはよくある話だった。他意はない。あるわけがない。ただの悪ふざけ以外の、なにものでもない。

 しかしその性質上、俺のように、盛り上がればおっけー、なんて短絡的な思考をしている奴もいれば、冗談じゃない、とそれを好まない人ももちろんいるわけで。

 端的に言ってしまえば、零というその人は、その手の悪ふざけをもっとも苦手とする人物だった。
真面目ちゃんってわけじゃないけど、そういう度の過ぎた冗談や悪ふざけが嫌いみたいだ。


「……もう酒飲まねぇ」

 多分明日には飲むけど。

 ごろり、と横になる。勢いをつけすぎて、頭を軽く打った。痛い。
 はあ、と深い溜め息を吐く。
 終電はもうない。タクシーを呼ぶだけの代金も心許なかった。だって、今日は元々泊まる気でいたのだ。
 零がいるであろう部屋の方向を見た。

 ああ、明日、どうすりゃいいのよ。


「あー……?」

 どうやらあのままリビングで寝てしまったらしい。身体の節々が痛くて、俺ももう若くないな、と悲しくなる。
 窓の方を見れば、締め切っていたはずのカーテンがあいていて、外には眩しい太陽が昇ったあとだった。と、同時に、そのカーテンを朝一番開けたであろう人物の存在に思い当たって、思わず身体が強ばる。
 起き上がらないままに、視線を彷徨わせる。それらしいものは見つからなくて、ひとまず安心して息を吐いた。

 ぼうっとする頭で、さてどうやって謝ろうかと思案する。昨日の様子だと、おそらくまともに会話もできないだろう。ああいう普段怒らないほんわかとした人種というのは、いざ怒ったときがそれはもう有り得ないほどに怖いのだ。勘弁してほしい。まあ、俺が悪いのだけれど。


 かちゃり、と、戸の開く音がした。
 振り向くよりも先に、あいつだ、とわかった。


どうやら俺が物思いに耽っている間に、奴はこの部屋に入ってきてしまったらしい。
 ヤベェぞオイ。俺まだなにもちゃんと考えてない。

 背中に刺さる視線が痛くて、俺は振り向けなかった。

「ねぇ」

零の、声。
 昨日の夜と同じ、冷ややかな声。

「ねぇ、聞こえてないの?」

「き、こえて、マス」

「なんなのよ反応してよね」

 こんなに動じるなんて俺らしくもない。けれど、慣れないことには滅法弱いのだ。仕方がない。

「風呂、入るなら入ってって。タオルとかいつも通り使っていいから」
「あ、ありが……」
「終わったらさっさと出てってね」

「……っな、ちゃんと謝っただろ!」

 冷淡な零の対応に、ついそう言い返す。
 ああ、違う。そうじゃないのに。
 焦る気持ちが頭のなかを渦巻いて、でもそれは渦巻くばかりで口からでようとはしない。

「……謝れば、済むと思ってるん?」

「だってあんなの悪ふざけだろ!真に受けんなよ酔っ払いのしたことを!」
「私ああいうの無理だって言ったじゃん!話聞いてないの?!」
「だからこうして謝ってんだろ!」

 一度頭に血がのぼってしまえば、激しい言い合いになるのはすぐで。お互いにぎゃあぎゃあと喚きながら、自分の主張を続ける。
 全面的に俺が悪い。悪いよ。わかってるけど。でも、そこまで怒ることないだろ、とか、謝ってんだから許せよ、とか、そういう身勝手な思いもどうしたって出てきてしまう。零は意地っ張りな奴だ。俺と同じくらい。
 喧嘩なんて滅多にしないから、収まるところが見つけられない。

「本当なら見るのも嫌だって話したよね?それを私はいつもいつも妥協してんだよ?毎度毎度のその『悪ふざけ』にさ!」
「じゃあ近く座らなきゃいいだろっていつも言ってんだろ!」
「そういうわけにもいかないでしょ、身内なのに!」
「そもそもお前酒強くないんだから飲み会なんか来なきゃいいじゃん!」
「っ、人付き合いとかあるじゃない!」

 話の向かうところが、もうわからなくなってきた。脱線しまくりだ。なんの話してたんだっけ、そう、俺が酔ったまま零に、ふざけてキスをしてしまった話を。


「つまり、あんなの遊びだから……」


 俺がそう言った瞬間、零は真っ赤な顔のまま、がたん、と俺の腕を強くつかんで、そのまま玄関の方へと引っ張っていった。

「ちょ、おい!」
「やっぱ風呂も使わないで。今すぐ帰って」
「はあ!?」

「……もう、しばらくは、顔見たくない」

 ぐいぐいと玄関の外へ追いやられる。無理矢理ジャンパーを持たされ、押し込むみたいに靴を履かされ、ガチャリと大袈裟な音をたててドアが開いたかと思えば、またすぐに同じ音をたてて閉まって、おまけをつけるみたいに鍵のしまる音がした。

 って、オイオイオイ。

「そんな怒ることかよ!」

 近所迷惑だ、とか、そんなことを考える余裕はなかった。安っぽいアパートの扉を、ダンダン、と叩く。


「怒ることだよ!」


 零は、そうやって叫んだ。
 ドア越しでも、よく聞こえる声だった。

「……怒る、ことでしょ」
「だから、悪ふざけだって、遊びだってば」
「そうやって、また『酔ってた』って言い訳する」
「だって」
「あんたにとってはね」

 そうやって零は、俺の言葉を遮った。
 あんたにとっては。俺にとっては。

「……そうなんだろうけど」
「なに……」

「私にとっては、そうじゃないから」

「……え?」

 つまりそれは、どういう意味だ。

「一瞬でも嬉しいって思った私が憎い……」

 え?

 悪ふざけなんかで、と零は付け足した。


 ああ駄目だ、ふうなちゃんもうキャパオーバー!


 どうすりゃいいのさ、と、さっきまでとは違う問題を抱えて、俺は一人で頭を悩ます羽目になったのだった。
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